調査報告書を読んで 【明治学院大学教員】 柘植あづみ  この調査報告書はとても読みやすくまとめられているにもかからず、読み進めるのにとても時間がかかりました。なぜなら、障害のある女性のひとりひとりが経験した恐れ、屈辱、怒りを言葉として発した貴重な報告書だからです。  「複合差別」として報告されている経験の多くは、障害のある女性に限らず、障害者・病者であるために受けている・受けてきた差別や暴力と重なります。家族、学校、職場、地域などでの無理解や差別、施設設備や制度の不備などです。その一方で、多くが、障害の有無にかかわらず、女性が受けている・受けてきた差別や暴力とつながります。医師や家族からの妊娠・出産をめぐって障害のある女性を傷つける言葉は、不妊治療をしていた女性全般へのインタビューで語られた内容と重なります。また、子どもを産むと決めたことによって直面した摩擦は、出生前診断をめぐる女性への調査で知った「障害児を産むな」という圧力、障害児を産んだときの困難な経験とも共通しました。痴漢やレイプなどの性暴力被害、DV(夫・交際相手からの暴力)、職場・学校でのセクハラ、家事・育児・介護などを女性の役割とする軋轢も、女性全般が抱える問題です。  しかし、「複合差別」は、障害者・病者への差別と女性への差別を単純に加えたものではありません。たとえば、読んでいてこんなことを思い出しました。私がはじめて生理になったときは祖母が赤飯を炊きました。産む性になった祝いでした。ところが、この報告書には、生理がはじまったときに母親から「生理はなくてもいいんじゃないの」と言われた、つまり「子宮を取る」という提案をされた障害のある女性の経験が載っていました。また、私は20歳代で子宮筋腫と子宮内膜症の手術をしましたが、その際に医師から、子どもを産みたいだろうから子宮も卵巣も残して部分切除をしなければならないために手術が大変だ、と言われました。私は一言も「子どもが欲しい」と言っていないにもかかわらず。報告書には、子宮筋腫の女性が医師に「『赤ちゃんが産みたい』というと『えっ!!』と驚かれ、それを聞いて私は大泣きした」という経験が載っていました。この両極に置かれた経験は、女性への差別と「障害のある女性」への「複合差別」の違いです。さらに障害のある女性にとっては、医療にかかったとき、暴力被害を受けた際に、支援を求める情報保障がないことは死活問題だということも報告書から切実に伝わってきます。  Aチームの丁寧な調査結果の整理は、厳しい状況を伝える数々の事例を貴重な記録にまとめています。重い経験にページをめくる力も萎えてしまいそうになりましたが、その後ろにある面接調査のまとめを読んだら、生きていく力、社会を変えていこうとするエネルギーをもらえました。Bチームの調査は、障害や病気のある人を理解しようとしない、関わろうとしない、同じ社会で一緒に生きようとしない態度が、「男女共同参画」と「DV防止」をうたっている行政や人々にもみられることを明らかにしました。「健常者」の想像力の乏しさから、指摘されなければ気づかないことを毅然と指摘しています。このBチームの作業は、「私たちはここにいる」「こうして欲しい」「こういう社会をつくろう」という提言となっています。この報告書が多くの人に読まれることで社会を変えていく力になる。そう断言できます。